葉隠物語

徳川家康さんが幕府を開いてから約50年の時が流れ、将軍様も四代目の家綱さんとなり
とても安泰で平和な時代の1659年6月11日、
九州は佐賀県の片田江というところにひとりのお侍さんが産声をあげました。
焼き物の代官退職後、70歳の高齢にしてお子を授かった父
山本神右衛門重澄(やまもとしんえもんしげすみ)さんは、
その子を「松亀(まつかめ)」と名付けました。
その当時佐賀県は鍋島藩が治めており、
お殿様は2代目の「鍋島光茂(なべしまみつしげ)」さまにかわったばかりの頃でした。

やがて「松亀」は「不携(ふけい)」「市十郎(いちじゅうろう)」「権之丞(ごんのじょう)」と名を変え、漸く夢にまで見たお殿様のもとで働けるようになりました。

それはそれは一生懸命に働いたそうです。

が、しかし、思わぬ上司の褒め言葉が逆にお殿様を怒らせてしまい
お勤めからはずされてお家に籠もることになってしまったのです。
いわゆる自宅謹慎です。

 

そんなある日…
お父上、重澄さんの親友で鍋島家の菩提寺
「曹洞宗 高伝寺(こうでんじ)」の住職もつとめたことのある偉いお坊さん
「堪然和尚(たんねんおしょう)」のもとを訪ね
更には和尚の紹介で儒学者「石田一鼎(いしだいってい)」先生と出逢うのでした。

これが正に「我逢人(ga hou jin)」です。
そんな堪然和尚、一鼎先生との
「一期一会(ichigo ichie)」が権之丞を大きく成長させていきました。

 

暫くしてお許しを得て権之丞は再びお城で働けるようになり、
以前以上にお殿様のおんために「端的只今の一念」で日々一生懸命働きました。

権之丞はその後、父の名前を受け継ぎ
「山本神右衛門常朝(やまもとしんえもんつねとも)」と名乗るようになってから、
お殿様に京都役をまかされ、ご隠居されたばかりで
お歌が大好きだった光茂さまの願いで「古今集」の秘伝「古今伝授」というものを
授かるために京都、大阪、佐賀、時には江戸とめまぐるしい日々をおくるのでした。
それでもそれがすべて自分が一番大切に思う光茂さまのためとあれば
少しも苦にはなりませんでした。
やがて念願叶い「古今伝授」を授かり、光茂さまのもとへお届けしてまもない
1700年悲しくも光茂さまはお亡くなりになってしまいました。
その身を捧げる思いで仕えてきた山本神右衛門常朝はそれを機に潔く髷をおろし
髪を剃り落とし、出家し、名を「旭山常朝(きょくざんじょうちょう)」とし
山の麓に籠もり覚悟をもって残りの人生をお殿様の冥福を祈る為に捧げることにしました。当年42歳でした。

 

それから10年後の1710年、同じく鍋島藩士の田代陣基さんが、その庵を訪ねることにより歴史的な運命の出会いがはじまるのでした。これも正に「我逢人」。出逢うべくして出逢った二人はその時の気持ちを

白雲や ただ今花に 尋ね合い  期酔(田代陣基)当時33歳
浮き世から 何里あろうか 山桜  古丸(山本常朝)当時52歳

と俳句にして詠み交わしたそうです。

それから約7年、その若き侍は元真の侍のもとを訪ね続け、その人生の師となる常朝が語る「武士の道」と鍋島家の歴史にまつわるエピソード等を
1716年に11冊の書にまとめたものが「葉隠聞書」(はがくれききがき)です。
この書は本来世にはだしてはならない門外不出の書となるはずだったのですが
神様仏様の後押しあってか後世のために残すべき書として
必然的に今もその使命とともに生き続け、語り続けられているものであります。

300年以上たった平成の現代における「社会、教育、子育て」全てに通ずる
一つの生き方の教えでもある…と思うのであります。


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